HOME > 新井工業のコンセプト

建設業における当社の役割

プロ集団を実現する3つの柱

新井工業は、建築、土木工事については、数年程度の新参者ですが、実際の社員については、経歴が長く、いろいろな工事に携わってきた技術者を配置しています。
人数こそ少ないですが、各人が図面、積算、発注、工事管理のできるトータルコーディネーターが実際の工事を担当します。
人数が少ないため全員が全工事(別種の工事においても)全員でフォローが出来る、体制で仕事に臨み、お客様のニーズに応えます。

協力業社の考え方

基本的に新井工業で仕事を行うときは、協力業者の見積りダンピングはさせません。
見積りが高くなると思われがちですが、しっかりした仕事をする協力業者、ちゃんと意思疎通のできる問題点をしっかり話し合える協力業者をある程度固定し、しっかりした仕事を行うよう、新井工業としても段取、図面のチェックを行うそんな体制でコストダウンを狙い、お客様のニーズに応えたいと考えています。

技術者育成の考え方

今のゼネコン全体をとらえると、昔のような図面、工程、安全、手配、現場における配慮ができる技術者が少なくなってきているという話を良く聞きます。
社員は「元請けなんだから、段取りをして全て下請けにやらせ、管理するのが正しい!」という教えが、平成以降の建設業の考え方の基本となってきました。

はたしてそれが正しいのでしょうか?

たとえば、
「専門工に建物の位置を出させて、チェックまでその専門工にさせて大丈夫か?」
「勝手に土工、土工事業者に根切りをさせて、高さ位置は間違いないでしょうか?」
「取合いのある仕事を一専門業者に単独で仕事をさせて問題が起こらないでしょうか?」
「万一間違ったらそれは、その業者(専門工事業者)の責任なのでしょうか?」
「問題の全ては協力業者の責任なのでしょうか?」
「難しい仕事を派遣社員にさせ、指導側の正社員がその派遣社員より知識が乏しいのに指示側にいることは正しいのでしょうか?」
「全ては値段が安ければ何でも正しいのでしょうか?」

我々は違うと思います。

建物は、設計図の理解、施工図の作成、工程作成、数量チェック発注、計画を理解し、あるいは理解するだけの経験者が行い、未経験者について指導者はそれを理解し、フォローする。そんな中で技術者が育つと思います。
一人の仕事量は限界がありますから、外注の考え方が間違いとは思いませんが、その外注先の力をしっかり理解して指導が出来る技術者がいて、初めてお客様のニーズに応えられるのではないでしょうか。

物を創る事は、必ず人が手を動かして仕事をします。

その事を決して忘れない。

今ある、いろいろな品質に対する基準というのは、あくまでチェックする項目で、その通りやるために、どうしたらベストアンサーが見つかるかを必死に悩んでその中の最大公約数的な答えを導きだせるのかが、大切なのではないでしょうか。(チェックリストでは100点ではないかもしれませんが・・。)
そういう指導される側の気持ちを考える技術者の集団、例え発注サイドの相手でもしっかり技術職と責任者としての意見を言える技術者の集団を創るのが当社の目標であり理念として、これからお客様のニーズに応えていきたいと考えています。

経営者の独り言1

皆さんは外国人労働者の事をどう感じますか?

自分はブラジル人、タイ人、中国人(現在はいません)、フィリピン人の方たちと今まで仕事をしてきましたが、本当に素晴らしい人たちばかりでした、私の勝手な判断ですが、ブラジルの人は陽気で大きな段取り、機械操作を得意としています。フィリピンやタイの人は、目の前にある仕事から逃げずに挑みます。中国の人は緻密で、大切なポイントはほとんど忘れずに仕事をします。皆、本当に根性があり、とても信頼できる人たちです。
いろいろな考え方があるとは思いますが、しっかりした気持ちで相手と対すれば、異国の人でも日本の人でも必ず信頼関係は生まれるというのが、自分の持論です。
育った環境が違いますから、最初はいろいろ問題が生まれます。しかし、同じ仕事をする仲間ととらえ、その同じ目的の仕事というルールを理解してもらう努力を常にし、その環境で一緒に仕事をすれば、国の軋轢はほとんどなくなるのではないと自分は考えます。

経営者の独り言2

自分があるゼネコン時代にある東京23区内の安全衛生大会で発表をしたことがあります。それは、地元ゼネコンとして初めて快適職場の申請、許可が下りたことを労働基準監督署に評価していただき、その発表を是非して欲しいとのことでした。人前で話すのが苦手な自分でしたので、苦労したのを今でも覚えています。
その中で自分が考えたのは、末端の職人が快適職場を行うことで、とてもいい環境で仕事が出来たと、その工事が終わって感じました。いくらかの経費はかかったのですが、今考えれば良かった事だなと思います。

最後に結んだ言葉に快適職場の精神を理解しようということを言ったのですが、快適職場申請、許可の業務が決して目的ではなく、その精神が大切なことと感じました。
快適職場の制度、産業医の制度、安全表彰の制度等、素晴らしい制度がたくさん日本にはあります。その制度の精神を今の日本人が忘れているのかなと時々感じます。
法律や制度、規則には、必ずそれを創ったときの精神があると思います。できた法律や制度、規則を守る時にもう一度、作ったときの精神を思い出してみたら良いのではないでしょうか。

経営者の独り言3

5~6年前になると思いますが、サラリーマンから現在の仕事についたとき、工場の仕事が一気に多くなり、急いで人集めをしました。全員の就労の資格は確認して仕事をさせたのですが、入国管理局に何人か捕まってしまいました。
雇い入れ当初、中国の人が多かったのですが、数人に囲まれたり、賃金の事で文句を言われたりして苦労や怖い思いをしました。賃金も当社のルールに従い、きちっと残業代も支払いました。 当然、雇用契約通りの支払いも苦労の中で行いました。その代り、仕事は厳しくやらせました。

結果2ヶ月したころ、「社長のところで、ずっと仕事をしたい。皆もそう言っている、よろしくお願いします」とある中国人の人たちから言われました。その時、自分はとてもうれしかったのを覚えています。

入国管理局に踏み込まれたときに、数ヶ月前にはまだサラリーマンだった私が、その担当の方に強く、踏みより「ふざけるな!」連れて行かれる時に「給料は払わせてくれるんだろうな!」と言ったのを今でも覚えています。
その担当者曰く、本当はあなたのような会社には取り締まりをしたくない。あなたが騙されたと解釈、理解してほしい。と言われました。複雑な心境でその場を離れたの今でも覚えています。

経営者の独り言4

最近時々思うところですが、資本主義と情報社会が両立するということは、本当はとても難しい問題を含んでいるような気がしてなりません。
高度情報化社会になってから、どんな些細な情報も誰もが早く入手できる時代になりました。
安いもの、いいものが人の手を介さずにすぐに安価に手に入れられます。また、どんなによいアイデアでも、他の誰かの耳に入るとそれはマネが出来る。あるいは、そのアイデア(商品と言ってもいいかもしれません)はその情報を握る人の手を介さなければならないような現状。
本当は人の手を介し、人から人に渡り(手数料はかかりますが、味があり、意味も理解出来、責任も生まれます)最終的に消費者に渡る。(当然雇用が多く創出できるようになります)本当のアイデアの価値とは情報化社会のアイテムで果たしてきちんと評価できるものなのでしょうか?
スキルを積み上げた人の価値はこの先どうやって、見つけていけばいいのでしょうか?
情報化社会のアイテムでそれが本当に理解、評価できるものなのでしょうか?
本当のアイデア、人の価値を理解するということは、実際に接してみないと理解できないものなのではないのでしょうか。

経営者の独り言5

最近の若い人は草食系の人が多くなったといわれますが、この言葉の意味はどういう意味を持っていると思いますか?
自分が考えるのは、極論ですが、大きな夢を持たない人になった、責任を取らないほうがいいから、一定以上の事は突っ込まない、しゃべらない人が多くなったという意味を含んでいる感じがします。これは、現在の社会環境が生み出した現象ではないのでしょうか?
あることに挑戦する前につかめる情報が多くなり、リスクばかり考えてしまい、当り障らずに今を過ごしてしまう。リスクテイクなんて言葉はとてもいい言葉のような感じがしますが、ある程度冒険して、自分の苦労を厭わない、危険を厭わない子供を温かく見守る社会を造る努力をしなければ、本当に国際社会で頑張っていける日本、若者は育たないのではないのでしょうか?
失敗してもそのホローアップ、次の失敗につなげない努力が大切な気がします。些細でつまらない責任追及は結果、既得権者の利になるばかりのような気がします。
女性を口説くのには、ひっぱたかれるくらいの危険は当たり前、そのくらいの気構えがなければ、本当にそのあと、一緒に暮らしていく努力、幸せをつかむことは出来ないのではないのでしょうか?
余談ですが、自分は公衆浴場でちいさな子供が騒いでいるのを見ると、とても微笑ましい感じがします。勢いでお湯くらい掛けられても、全然平気です。その時、万一謝ってくるような子供に出会えた時はさらに微笑ましい気持ちになります。(もっと遊んでもいいよ 言いたいところですが、他の人もいますので上手に遊んだ方がいいよ くらいに思っていますが・・。)その代り、大学生程度の子供が数人居て、映画館の席で騒いだ挙句、後ろから座席にコツコツ足が当たれば、しっかり叱ってあげます。
人が人を正す。前に歩く人が後輩を叱る。何が間違いで何が正しいのか、責任追及ではなく、愛情を持って叱るとはなんなのか。
もう一度考える時代に入っているような気がします。